THE DANCER
20XX年、芸術はそのすべての色を失った。
そして今日は世界の終わりの日。そう、たかが世界の終わり。
総人口の約95%を失った第四次世界大戦終結後、かつて国家と呼ばれていた境界線は廃止され、間もなくそれらは統合された。
絶滅の危惧に瀕した人類は、種の復興に向け途端に足並みを揃え始めた。
その翌年、自由な思想や言動・表現は、種の分裂を招く危険なものとし、それにつながるものの全てには厳しい規制と罰則が設けられた。旧時代から残されてきた文献や、世界各所に保管されてきた芸術品と呼ばれるものの全ては焼却処理をされ、数千年にも及ぶ歴史の数々は灰となった。
度重なる同種間での争いや誤ちを繰り返さんと、その全ては刷新され、新時代が幕をあげたのだ。
わたしの父は幼少の頃、旧時代を経験している。
父によると旧時代には、絵画や音楽、架空の物語を描いた映像や物語がなどが街の至る所で見受けられ、人々は色鮮やかな装飾品や衣類を身に纏い、それぞれの思想を持ち、それらを自由に表現することが許されていたそうだ。旧時代のことを口にすることは固く禁じられていたが、父は寝付けない私に枕の横でたまに話すことがあった。まだ幼い私には何も理解出来ないだろうと思っていたのだろう。目を輝かせながら、けれども淡々と、その興奮を隠すように、当時の煌びやかで夢のような話をする父の表情は子供の私から見ても、まるで子供のようであった。
父はよく、ある踊り子の話をした。
「父さんがお前と同じくらいの頃にな、おばあちゃんに連れられて劇場に踊りを観に行ったことがあってな。ああ、踊りっていうのは手や足を使って激しく動いて見せたり、宙に舞ったり回ってみせたり、身体一つで表現をするもののことだ。」
「こんな感じ?」
幼い私は、ベッドの上で手足を縦横無尽に動かしてみせた。
「そうそう、そんな感じだ。でも、それを外でやってはいけないよ。これは昔の話。」
父は話を続ける。
「劇場ではな、一つの舞台に向かって数百の椅子が並んでいるんだ。開演のブザーが響くと同時に、真っ赤でどっしりとした垂幕がゆっくりと引き上げらる。すると、先の見えない暗闇が顔を見せるんだ。父さんもまだ子供だったから、これから何が起こるかもわからないその真っ暗闇が怖かったのを今でも覚えているよ。」
私は息を飲んで、聴き続ける。
「垂幕が上がりきると、闇に包まれた舞台にうっすらと人影のような輪郭が一つ。それは一瞬のうちにライトに捕まって、その全貌を見ると一人の男が立っていたんだ。彼はその眩い照明の光から逃げるように、舞台の端から端までを手足を目一杯に動かして華麗に走り回った。その一挙一同は、一切の音も立てず、けれども大胆に。大空に羽ばたく海鳥のように宙に舞ったと思えば、卵の上に着地するかのように軽やかな着地で、それは人ではなく、見たこともない幻の鳥を見ているようだったよ。まばたきの一つでもすれば崩れ落ちてしまいそうな緊張感に包まれたその空間で、その男は優雅に美しく、時に大胆に踊り続けた。静寂に包まれた劇場の中には、一切の音もなく、その男の足が床に擦れる音や息遣いだけがたまに響き渡るだけだった。それでもそこにいた数十、いや数百の観客の眼差しは一度たりともその男を逃さなかっただろう。それだけ魅了されていたんだ。」
私は父の話し声を一音も逃さなかった。
「終わりが近づくとな、さっきまでの優雅で美しい生き物の姿は少しずつ消えていって、男の息遣いは荒く、キラキラと宝石のように汗が飛び散り、動きはより大胆に大きくなっていった。つい数分前までのその男が美しく舞う白鳥だとすれば、目の前にいる男は恐怖すら覚える獣のような野蛮さを帯びていたんだ。純白で一切の摩擦のない殻を突き破って、真の姿を晒すように。父さんはこの辺りでやっと、その男が父さんやその場にいる皆と同じ人間であるということを理解したんだ。」
私は一言だけ。
「でも人間は獣ではないでしょう?」
「ああ、そりゃそうだ。でもな、獣のような野蛮さを帯びたその男はとても美しかった。なぜだろうな。その理由は今になってもわからないんだ。でも一つわかることは、あの男の魂が燃える音を聞いた。その場にいた皆がきっとそうだと思う」
「どんな音?」
「実際に聞こえる音ではないんだ。今の時代にはきっとない音さ」
「そっか、残念」
父は返事をしなかった。
少しの間が空くと、はっと我に帰ったように父の瞳は輝きを失い、皆と同じ色の無い瞳に戻った。
「ほら、早く寝なさい。」
父はそう言い残して足早に寝室を後にした。
私は何度も何度も父の話してくれた話を頭の中で繰り返し想像してみた。そのうちに段々と目蓋が重くなっていった。
この記憶からきっと20年近くの月日が経った。
私は、あの日父が話してくれた踊り子の話を一度たりとも忘れたことはないが、その話を一度も口にしたことはなかった。
きっとあの旧時代の話は所謂”芸術”というものであると幼いながらに感じていたからだ。個の思想や言動に影響を与える物事は固く禁じられている現代では、皆と同じ思想を持つこと、皆と同じ生活を送ること、同じ衣服を纏うこと、同じ言葉を使うこと、集団的な思想が善とされ個の思想や表現は悪とされている。こうすることで大海原で一糸乱れず泳ぎ回る小魚の魚群のように、人類は足並みを揃えて、かつての絶滅の危惧から脱したのである。
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「どうかなさいましたか」
「わたしにお手伝いできることはありますか」
ぼうっと記憶の旅を続けているわたしに使用人のA Iロボットが執拗に話しかけてくる。
「なんでもない、大丈夫だから」
吐き捨てるかのように答える。
「分りました」
わたしはこの冷たい肌の鉛の塊が嫌いだ。
見た目だけではヒトかそうでないかの区別も付かず、当たり前のようにヒトの中に紛れ込んで生活をしている。
今では総人口の大半が感情も臓器も、温みすら持たないAIロボットであるという。
わたしは”このように”成り果てた世界のことしか知らないが、幼い頃から激しい違和感を覚えていた。
それと同時にわたしがわたし自身を疑い、信じることができないことも幼い頃からずっと。
『わたしは本当にヒトであるのだろうか』
『この記憶のその全てが、何者かの手によって創作されたものだったとしたら』
『同じような姿形の他人との明確な違いはなに』
『わたしがわたしである理由とは』
「今日はもう休む」
空気に話しかけるようにわたしは言った。
驚くほどに左右対象に微笑む鉛の使用人が寝室に入るわたしに頭を下げた。
今日は疑心暗鬼に包まれたこの世界が終わる日。
わたしは踊る。
幼い頃にベッドの上で父に聞いたあの踊り子のように。
火の灯った蝋燭が倒れ、辺りは少しずつ炎に包まれていく。
即座に駆けつけわたしを押さえつけようとする鉛の使用人は、人工皮膚が溶け、その正体をついに現した。
やがて騒ぎを聞きつけた野次馬たちが炎と私を取り囲む。
わたしは踊り続ける。
この抑圧された世界で築かれた私の数十年を燃料に、炎は色とりどりの火花を散らしながらたちまち激しく燃え上がった。
特段と紅い夕日が、揺らめく炎と狼狽する人々を照らし、それらに落ちた影はゆらゆらと踊っているようだ。
観客の顔は夕日色に赤く染まり、その瞳の奥には火花が映っている。
笑いがこみ上げてくる。それは狂気の笑いではない。
解放された喜びの笑い。私はもっともっと激しく飛んで跳ねて、手足を振り回し踊って見せた。
あの幻の鳥のように。
まもなくやって来た消防隊が炎を消そうと放水を始めた。
私は叫んだ。
「消すんじゃない、その炎は私の魂だ!!!」
唖然とした人々と沈黙の中に、火花の散る音だけが響いた。
炎は火花を散らしながら燃え盛る。
意識が朦朧とする中でも、何一つの後悔はない。
わたしの魂は美しかった。
わたしは踊り続けた、ヒトで終わるために。
「ねえ、あっちの空。煙が上がってる」
「本当だ、何かあったのかな」
「綺麗ね、煙が踊っているみたい」
その少女はその柔らかな右頬に笑窪を作ってそう言った。